35歳の私は今の自分をどう思っているのだろう(o・ω・o)?ホエ? [薔薇少女の追憶]
昭和59年7月 市の社会教育センターで、パソコンの講習を受けた
記憶は曖昧だけど、4,5日位のミニ講習会だったと思う
電源の入れ方も解らない、心底の初心者だったので、
何を教えて貰ったのかさえ、覚えていない
♪o○*:.。..。.。♪o○*:.。..。.。♪o○*:.。..。.。♪o○*:.。○♪
そんな時、隣の教室では、水彩画教室が開かれていた
絵心なんて全く無い私だけど、ロビーでその教室の展覧会をやっていて
ある人の絵に釘付けになった
そして、『モデル募集!』の張り紙が・・・
絵を描く事は、苦手だけど、あの素敵な絵を描いた人に
描いて貰えるならと、事務所に尋ねると、女性なら誰でも良いと云う事で
絵画教室の方々に面接して次の水彩画のモデルに、即決定した
当時の記憶は薄れたけれど、
1時間位同じ姿勢を保たなくてはならないので、
絵画モデル初経験の私には大変だった。
多分15分置きに5分の休憩、
それとも20分置きに10分休憩だったかなぁ・・・
記憶は曖昧です
多分1週間後、第1回目の絵画教室 デッサン会
教室には12人位の同好会の皆さん(ほぼ50歳以上の人が多かった様に記憶している)が
一斉に私を凝視してるので、ドギマギ、内心は冷や汗もんなんだけど、
表情は変える訳にイカナイので、7月と云う事も有り、汗は尋常でなかったと思う
週2回で何日間モデルになったのか、忘れてしまったけど、
皆さんの仕上がった絵を見せて頂いたのは、
随分後の事だった様な気がする
で、あの釘付けになった Mr.T さんの絵にやっぱり魅かれてしまった
この絵を頂いた経緯はよく覚えている、私が気に入って懇願したのだった
50歳前後のロマンスグレイと云う言い方がピッタリくる素敵な方だった
今はご健在で居られるのかしら
39回目の結婚記念日☆★,。・:*:・゚♪☆~(^▽^('∇^*)☆♪。・:*:・゚★☆ [薔薇少女の追憶]
hanaさんの記事で、思い出したんだけど、
今日は39回目の結婚記念日だったw
いつもは覚えているんだけど、今年はすっかり忘れていた
hanaさんちへ早めに訪問して良かった~
息子さんの誕生日とおんなじ日と云う事で
お互いに.☆.+:^ヽ(∇ ̄*)o♪Congratulations♪o(* ̄∇)ノ^;+.☆.
それに、今日は東京スカイツリーのグランドオープンの日だし
これからは当分忘れる事はないでしょうねo(*^▽^*)o~♪
来年のルビー婚が楽しみです今年は何にも無いと思うけど(TεT) イイサ・・・
リアル関係者の皆様、期待してまっせーーー“o(* ̄o ̄)o”ウキウキ
集合写真
カラーは高いのでモノクロ
この頃は出席者全員に集合写真と2人の写真(お色直し分も)を
渡すのが普通だったんだけど、
ろくに付き合いも無い親戚の結婚写真貰っちゃっても
しょうがないと思って、親以外は集合写真だけにしちゃった
勿論スナップ写真は其々写ってるのを焼き増しして渡したんだけどネ
離婚しちゃった人の結婚式の写真って処分に困るんだよね
この中の半分位はお空の住人になっちゃった
お色直し
なりたかったんだけど
白塗りが怖いショック☆<( ̄□ ̄;)>☆ショック
意地悪なお局様みたい(TmT)ウゥゥ・・・
もう一度やり直したいなぁ~
まぁ今のビア樽のボディじゃ着物も
ドレスも着れやしないけど
冬の金沢 兼六園
付き合い始めて数か月
ひょんな事から二人で金沢へ旅行に
行く事になっちゃった
ホントは4人で行くはずだったんだけど
その二人は別れちゃったんだよね、
間近だったんでキャンセルも出来なくて
仕方なく二人っきりで行く事になったんだけど
勿論親にはグループで行くと嘘ついちゃった
当時男の子と結婚前に旅行するなんてトンデモナイ事だったんだよね
この時は手を繋いだ位だったんだけど、この旅行が無かったら
私達は結婚する事も無かったんじゃないかなヽ( ´ ∇ ` )ノ ♪
新婚旅行 八丈島
羽田からプロペラ飛行機で八丈島へ飛んだんだけど、
人生初の搭乗は揺れて♪揺れて♪彼は熱発しちゃうし、私は酔っちゃうし
出足はテンションダダ下がりでスタートしたのだったw▼ ̄□ ̄;▼!
夏の思い出!!! [薔薇少女の追憶]
今、連れの庭で、お池になってるヨットも かっては、こんなに活躍してたんです
昭和50年代
昭和30年代 海水浴(鼓が浦) 従弟と
昭和40年代 海水浴 (高校生なのにスクール水着)
名古屋港でESSの先輩と
昭和40年代 花咲く乙女の頃 T社時代
昭和50年代 息子がこの世に登場してきた頃
この頃は今みたいに太るなんて考えもしなかったぁ~
新?さんま初登場
今年はさんまがメチャ高いそうですが、イオンで特売やってたので
即買いしました
父の容態が芳しくなく、明日にでも仙台へ出向く事になりそうです。
東京行きもどうするか、決め兼ねてる次第です!
当分訪問もコメレスも出来ないと思いますので、
宜しくお願いします。
ブログ始めて3年になりました!!!(予約投稿) [薔薇少女の追憶]
私がブログを始めた日 2007.7.31
兼ねてからブログとかいう物の存在は知っていたけど、
まさか自分がブログを書く様になるなんて思いもしなかった。
とある出来事で、とある人と知り合って、とんとん拍子に
設定とかを手取り足取り教えて貰って、
あっという間にブログが投稿されていたのだ
最初に選んだスキンは苺の背景、薔薇の花が良かったんだけれど、
その時は見つからなかったし、文章も挨拶だけ、写真も何にも無かったので
友達に頼んでメールで送って貰った物を取り合えず載せたって感じ
ホントに訳解んないままに始めたのだった
そして私の生活は一変したのであった
【お詫び】
8月末に友達と『ZED』と『TDS』へ行く事になって、
働いてる二人に代わって私が予約一切をしなければならなくなり
ブログ訪問が疎かになります。
ゴメンなさ~~~い!
気が付けば37年かぁ~?! [薔薇少女の追憶]
5月22日は結婚記念日だった
今までずぅぅ~と、23歳で結婚したと信じていた
だから今年は結婚38周年だと思ってたが、
相方に指摘され、37回目の結婚記念日である事が判明した
只それだけの事なのだけれど・・・
23歳で結婚したと長い長い間思い続けてきた私の脳は
一瞬フリーズしてしまった
きっと、他の事でも思い違いして記憶に残ってる事は
数々あるんじゃないかと思うと、何だかとっても不安になる
そういう思い込みってありませんか
彼に逢ったのは、21歳の秋、ドラマの様な?出会いだった
彼は大学生、私はTO社を辞めてYA社に転職した直後、
最初は『不揃いの林檎たち』の様なグループ交際?の様な
付合いだったけど、いつしか二人が残されて、二人っきりで会う事が多くなった。
そして、すったらもんだら 様々な難関を潜り抜け・・・
私よりも髪の長い彼 あんみつ姫になった私
ボクの髪が肩まで伸びて君と同じになったら~♪
私よりも髪が長くなっちゃった彼と私は S48.5.22. 結婚した
いろいろ、本当にいろいろ
紆余曲折はあったけど、どうにか37年暮らしてきた
考えてみると、親と暮らしてるよりずぅ~っと長い期間なんだぁ~
これからもその時が来るまで続いていける様に努力しなくっちゃね~~~
28日から宮城の親の所へ行くので、暫くお休みします。
ノートパソコンだけど、一度も持ち出した事無いんだよね!
弟宅は勿論インターネットは出来るんだろうけど、
使わせて貰う事は出来ないしなぁ~
それどころじゃ無い状況なのは、解ってるけど
PCに触れられない状況は辛いなぁ~
キングクリムゾンの宮殿 『Epitaph』 [薔薇少女の追憶]
nanoさんちでKing Crimson を聞いてからどうしてもこの曲を貼り付けたくなっちゃった
Epitaph(エピタフ・墓碑銘)
もう1つ
そしてザ・ピーナッツ も唄っているとは知らんかったぁ~
キャンディーズもあいざき進也も西城秀樹も唄ってるらしい???
ザ・ピーナッツ懐かし過ぎて涙が出ちゃう、名古屋に帰ってはいないだろうなぁ~
私の高校の先輩なんですぅ
久々のYOUTUBE貼り付けなので上手く貼り付け出来たかな
この『Epitaph』と云う曲の和訳を探していたら
http://homepage3.nifty.com/~crmkt/index.htm#MENU
に、たどり着いたので、ここへコピペしてみる
「エピタフ(墓碑銘)」
予言者達が書き付けた壁は
割れ目から崩れ落ち
殺戮の道具の上に
日の光は燦然と輝く
あらゆる人が悪夢や夢想とともに
引き裂かれていく時
栄冠など何処にもありはしない
静寂が叫びを呑み尽くしてしまう
破滅の定めの鉄門のもとに
時の進行の種子は播かれ
聡明かつ著名な偉人達の行ないが
水を与てきた
掟を決める者がいないのなら
知識とは死を招く友
全人類の破滅の定めは
愚者どもの掌の上にあるようだ
錯乱こそ私の墓碑銘となろう
ひび割れ荒廃した道を私は這い進む
「エピタフ」解説
救いようのない世界を描ききっている。ここでのfateは確かに運命なのだけれど、
単なる運命ではなく破滅が約束された運命である。
人類の破滅のプログラムがスタートされ、促進されるということ。
P.シンフィールドの描くおどろおどろしい中世風の世界、
血に彩られる残酷な歴史といったアルバムコンセプトは、
そのサウンド、ジャケットのイラストとともに一体をなし、隙が無い。
この詞、よく見ると「クリムゾンキングの宮殿にて」と意味するものが
重なる箇所があるようで、その辺の話はこちらを参照して頂きたい。
『こちら』
主人公は更に現実から離れ、理由無く= no reason、虚構=過酷な明日=tomorrowへと
歩まされるのだが、LPのA面ラストのこの曲は、
B面ラストの「宮殿」と表現・意味が重なり合う要素が多い。
一方が荒野の男の独白、一方が宮殿中の複数者の情景という違いはあるが、
トータルアルバムという見方からすると、
それぞれの面のシメで同じメインテーマを形を変えて示したものだと思える。
知識とか予言が陽光のもとでは意味を失い、過酷な定めが白日に晒される点。
死の道具と御前試合の槍・鎧。愚者の手中の未来と道化の操る未来。時の種が蒔かれ、
常緑樹は植えられる。破滅に向かって進むのをただ観るのが主人公だ。
歩き続け明日を嘆く事と、城の周囲をうろつき明日を見届けようと走り回る事は
、結局同じ事を言っているのだろう。
あくまで仮説だが、主人公は明日を恐れた後に夜を迎え(墓碑銘でA面が終了し)
夜の間につかの間の現実逃避=月の子(夢にして幻想)を味わったのち、
朝目覚めると一層虚構性は深まり、やはり過酷な運命の日が繰り返すのだった
(宮殿でB面が終わる)というのが、アルバム「宮殿」の物語の粗筋ではないだろうか。
この「エピタフ」は22歳頃から、何百回と聞いたものだった。
何と胎教にもこの様なおどろおどろしい曲を聞かせていたのだから呆れる
息子のロック好きはやはり胎教のせい(´・_・`)カナー???
初めて予約投稿とかいうものを試してみる┣¨キ(*゚Д゚*)┣¨キ
東京が あこがれ都 だった頃 [薔薇少女の追憶]
マイペース 東京
木枯らし紋次郎の様な?ぼんぼちぼちぼちさんの記事で吉祥寺という言葉を見つけてから
急にあの頃の東京への想いが甦ってきてしまった
二度目のYOUTUBE果たして成功するのか?プレビューでは反映されないので、 取り合えずUPしてみるけど、どうもHTMLを外すと混乱してしまう??? 今まで行った東京は、 赤坂 六本木 銀座 原宿 恵比寿 吉祥寺(多分) 渋谷 新橋 上野 神楽坂 田町 ・・・中学3年の修学旅行は入れずに10回位かなぁ?・・・ココ10年くらいは行ってないなぁ~昔のアルバム [薔薇少女の追憶]
あつしさんがアルバムの事、書いていたので、私も
懐かしくなって、昔のアルバムを出して、遠い昔に
想いを馳せてみました
日本万博博覧会 EXPO’70 人類の進歩と調和
1970.3.15~9.13 大阪千里丘陵
入場料 青年 ¥600
青年という料金設定が有ったとは、何か面白い
21歳だったので、確かに青年だったけど、今って青年って
言葉はあんまり聞かないよね・・・
T社経理部時代 (18~21歳)
この頃のアルバムは『コーナー』という三角のシールを四隅に
貼って其処へ写真を収めていたのです
わかるかなぁー、わかんねぇだろうなぁー
↓ここからは透明のシートをかぶせる方式のアルバムです
連れ(大学生)との恋愛時代です(わはっ) (21~23歳)
中津川フォークジャンボリー
市内の公園
リコーオートハーフというカメラ(¥18900・当時の初任給¥18500)
を始めてのボーナスで買って、撮りまくってましたね
当時はカラープリントが¥70位、白黒は¥10位なので、
とっておきの写真以外は白黒でした
ブザービートにすっかりハマッテイマス
大昔の事思い出して、月曜の夜は胸キュンしちゃってます
の想い出も、つい昨日の事の様に当時の情景が迫ってきます
せつない・・・
今日イオンへお米買いに行って、置き引き?に遭っちゃいました
幸い、スグ気が付いて、被害は無かったけど、、、、、
カートにバッグ提げたまま、バイキングのお惣菜をカップに入れてたら
側に置いてあったはずの、カートが消え去っていたんです
一瞬何が起ったか訳わかんなくなって、心臓はバクバク、
全部バッグに入っていたので、どうする事も出来ず、
泣きそうになりながら、周囲を探し回ったら、10メートル程先に
お米が入ったカートが・・・あった バッグもそのまま、お財布もそのままで、
ホッとして、へたり込んじゃいました
後チョット遅かったらバッグは取られちゃっていたかと思うと、
カートを見たら、貴重品はかけないで下さいと書いてありました(大失敗)
今年はこれで、3回目の大失態、3度目の正直で、盗られていても仕方無かったかも・・・
神様に感謝すると共に、本当に気を付けなければと思いました
遠い日の記憶&残暑厳しき日々 [薔薇少女の追憶]
初恋の人
中学2年の時から主人と出会う20歳頃まで
ずう~っと片思いし続けた彼・・・
やっとの想いで、写真を撮る事が出来、満面の笑顔の私
家の前の川なんだけど、誰に撮ってもらったのか
思い出せないんだけど・・・
高校1年生、クラス1番のイケメン君と初ツーショット
今ではツーショットで写真を写す事なんて、何でも無い事だけど
当時はスゴク勇気が要る事だったんです
田舎だったので3km位離れた駅で、男の子と話しているだけで
その晩には、自宅の両親に「告げ口」されたりしてました
今では電車の中でもお構いなくしてて、
ほんと、ウラヤマシイ
でもあの頃の純情一直線の私は、誰にも負けない
けなげさがあったと思います(自惚れですが)
毎日残暑が厳し~~~い
お盆の食卓(主人の実家)
豪華絢爛海の幸オンパレード
およそ10人分殆ど義姉一人で作って下さいます
申し訳無く思いながらも、いつもお土産まで
下さって、恐縮してしまいます
長男のお嫁さんは大変だなぁ~
私には絶対真似出来ません
息子夫婦が来た時でさえ、外食ばかりです
もういい加減、ご馳走になるのを辞退しなければ
ならないと思うのですが、主人の親戚なので、
私には決定権は無く、只々感謝するばかりです
まぁ、それ相応の物(券)は持ってゆくのですが・・・
いつも台所に立ちっぱなしで、料理を作り続けてる
義姉を見てると、自分は絶対にそんな献身的な事
出来ないので何だか気が引けてしまいます
甥のお嫁さんも料理上手で、いつも義姉を手伝って
くれてる様です。
この長男君の食べっぷりの良さには
敬服しちゃいます
私の息子が食べなくてスゴク苦労したので
余りの違いに只々感心しまくってます
食べ過ぎる位なので「ご馳走様しなさい」と
お母さんに言われると、
「僕、もう少し食べたいんだけどなぁ」と
悲しそうにする所がとっても可愛いんです